「朝鮮報国隊」の軌跡

       
 
  朝鮮の刑務所に入れられている人びとを海南島で強制労働させようとする日本海軍の要請に応じた朝鮮総督府は、 1943年春から、獄中者を選んで「南方派遣報国隊」を組織し、海南島に送り出しはじめた。
  「朝鮮報国隊」の人びとは、三亜飛行場・陵水飛行場の建設、三亜ー楡林間の道路建設、田独鉱山や石碌鉱山での採鉱、  石碌鉱山ー八所間の鉄道建設、八所港湾建設、感恩の鉄橋建設、新村の特攻艇格納用洞窟建設などをさせられた。
  「朝鮮報国隊」の人たちの「犯罪」は、抗日反日の質をもっていることがあり、「一般刑事犯」の投獄もまた、治安のための事前弾圧でもあったと考えられる。


三亜飛行場

回新村に残る三亜飛行場の排水溝
「 朝鮮報国隊」が作らされた
海經杰さん(1934年生)  宋周生さん(1929年生)
 「モスクが、日本軍の宿所にされた。
  米軍機が飛行場を爆撃したとき、回族の住民もおおぜい死んだ。60〜70人くらい。
  回族の遊撃隊員4、5人が日本軍につかまってここで殺されるのを見たことがある。
  朝鮮人は、日本軍が連れてきた。朝鮮人は毎日働く。歌をうたいながら、働きにいった。
  台湾人も、日本軍に連れられてきた。台湾人は、田んぼで稲をつくっていた。荒れ地を田に変えた。
  朝鮮人と日本人は、同じではない。朝鮮人は働く人。青い服。日本人は、‘エライヒト’、白い服。
  飛行場の近くに‘三亜荘’と‘海南荘’という慰安所があった。朝鮮人、海南島の女性もいた。  ‘三亜荘’は、‘ヘイタイ’が日曜日に行く。‘海南荘’は、‘タイチョウ、エライヒト’が行く。  ‘三亜荘’には、朝鮮人の女性だけ。若い女性だった。日本人と話すことばが違うので、朝鮮人だとわかった」。
高振武さん(1936年生)
 「ここで生まれ、ここでずっと暮らしてきた。 子どものとき日本軍がきて、飛行場をつくった。日本軍は朝鮮人を何百人も働かせていた。 朝鮮人は青い服を着ていた。日本兵は村の女性に乱暴した」。
哈秉堯さん(1921年生)
  「子どものころ朝鮮人が死ぬのを見た。 仕事をちゃんとしないといって、撲られて死んだ朝鮮人もいる。 たくさん死んだ」。
回新村の「朝鮮報国隊」宿舎跡

三亜中山路

馬霖さん(1916年生)
 「わたしは、香港から海南島に連れてこられた。
  三亜の中山路で'朝鮮報国隊’と縫いつけた青い服を着ている人たちを何度も見た。  20人くらいで、道路を修理していた。'コラー’と日本の兵隊がどなっていた。   わたしは、'朝鮮報国隊’は朝鮮共産党の人たちだと思っていた」
 

石碌鉱山・八所港

白川さん(1921年生)
  「わたしは台湾から石碌に連れてこられた。   ‘朝鮮報国隊’の人は、ふたり一組で、1メートル半くらいの鉄のくさりでつながれていた。
  あの人たちは朝鮮で日本に反対した人たちで、政治犯だと、友人が教えてくれた。おおぜい死んだ。
  マラリアにかかったりして。台湾人もおおぜい死んだ」。
 
向全さん(1917年生)
  「石碌から八所間の鉄道工事の現場で、'朝鮮報国隊’を見た。青色の服を着ていた。   日本軍は、他の労工に、報国隊に近づくなと言っていた。
  ‘朝鮮報国隊’の人たちは、ほんとうに苦労をした。日本帝国主義に反対した人たちだと聞いていた」。
 
  崔成烈さん(1920年生)
 「わたしは、西松組の‘一般徴用’で海南島に行き、八所で配給所の責任者として働いていた。
  1943年のある日、船が来た。降りて来た人たちは、戦闘帽をかぶり、胸になにか着けていた。   そのあと、同じような人たちを乗せた船は4回来た。憲兵が銃をもって監視する中を、集団ごとに旗をもっておりてきた。   ‘咸興報国隊’という旗があった。‘釜山報国隊’、‘大邱報国隊’という旗も見えた。白い布に黒い字で書かれていた。   幅は45センチくらい、長さは2メートルほどあって、とても大きかった。
  朝鮮のあちこちの刑務所から‘京城’に集められて海南島にきた、みんな5年以下の懲役刑だが、   3分の1をつとめれば釈放されるという条件で来た、と言っていた。
  咸興からいっしょに八所に行った石光玉と金昇泰は、解放後に帰国した。   1949年ころ偶然ソウルで二人に再会したが、そのとき彼らは、‘朝鮮報国隊’がみんな銃殺されたといっていた。   そのことを彼らは、三亜の‘土人’から聞いたと言っていた。1200人〜1300人くらい殺されたという」。
        (2001年4月19日、ソウルで)



張達雄さんさん(1922年生)
張達雄さんは西松組の「募集」で海南島に行き、解放を石碌で迎えた。
 「解放直後、受刑者たちもいっしょになって、朝鮮人会をつくった。 西松組本部がそのまま朝鮮人会の事務所になった。朝鮮人会には1000人をこえる朝鮮人がいたと思う。 苦力だった金チョンシクが初代会長。彼から愛国歌を習った。ソウル出身で、日本で大学を出たといった。
  はだしで、上着は着ていなかった。   人数は多かった。かれらの宿所は、鉄条網で囲まれ、監視は、日本軍の特務隊がしていた。   朝鮮の刑務所から来たと思った」。

感恩鉄橋

蘇誼芬さん(1922年生)
蘇誼芬さん
 「青い服を着ていた人たちがここに住んでいた。100人くらいいた。 鉄橋工事のためにここに来た。服の背中の肩のところに、 ‘朝鮮報国隊’と縫い付けていた。 白い文字で。ズボンは青かった。監督は白い服を着ていた。拳銃を持っていた。
 青い服の人たちは、工事現場に、うたを歌いながら行った。 “ソラタカク キョクジツ……」。
呉日文さん(1931年生)
呉日文さん
 「朝鮮人を見た。日本の学校に通っているときに。青い服を着ていた。
石を拾って運んだり、橋げたの工事をしていた。
‘青年報国隊’ということばを聞いたことがある。白い服を着た人が、青い服の人を管理していた。 3〜4人が、100人くらいの人を管理していた。‘青年報国隊’は、体つきが太くて、白い服を着た人を恐がらなかった。
 共産党が‘青年報国隊’を逃がそうとして、‘条紙’を見せて、(‘青年報国隊’は)夜へいをこわして逃げたが、道がわからず、つかまった。
 つかまってほとんど殺された。子どものころよく聞かされた」。
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