三亜飛行場
回新村に残る三亜飛行場の排水溝
「 朝鮮報国隊」が作らされた
海經杰さん(1934年生) 宋周生さん(1929年生)
「モスクが、日本軍の宿所にされた。
米軍機が飛行場を爆撃したとき、回族の住民もおおぜい死んだ。60〜70人くらい。
回族の遊撃隊員4、5人が日本軍につかまってここで殺されるのを見たことがある。
朝鮮人は、日本軍が連れてきた。朝鮮人は毎日働く。歌をうたいながら、働きにいった。
台湾人も、日本軍に連れられてきた。台湾人は、田んぼで稲をつくっていた。荒れ地を田に変えた。
朝鮮人と日本人は、同じではない。朝鮮人は働く人。青い服。日本人は、‘エライヒト’、白い服。
飛行場の近くに‘三亜荘’と‘海南荘’という慰安所があった。朝鮮人、海南島の女性もいた。
‘三亜荘’は、‘ヘイタイ’が日曜日に行く。‘海南荘’は、‘タイチョウ、エライヒト’が行く。
‘三亜荘’には、朝鮮人の女性だけ。若い女性だった。日本人と話すことばが違うので、朝鮮人だとわかった」。
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高振武さん(1936年生)
「ここで生まれ、ここでずっと暮らしてきた。
子どものとき日本軍がきて、飛行場をつくった。日本軍は朝鮮人を何百人も働かせていた。
朝鮮人は青い服を着ていた。日本兵は村の女性に乱暴した」。
哈秉堯さん(1921年生)
「子どものころ朝鮮人が死ぬのを見た。
仕事をちゃんとしないといって、撲られて死んだ朝鮮人もいる。
たくさん死んだ」。
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回新村の「朝鮮報国隊」宿舎跡
三亜中山路
馬霖さん(1916年生)
「わたしは、香港から海南島に連れてこられた。
三亜の中山路で'朝鮮報国隊’と縫いつけた青い服を着ている人たちを何度も見た。
20人くらいで、道路を修理していた。'コラー’と日本の兵隊がどなっていた。
わたしは、'朝鮮報国隊’は朝鮮共産党の人たちだと思っていた」
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